空手道部とOB会組織の略歴について 桐花会会長 野口 潔

 新入生や若い部員、OB諸兄のために、空手道部とそのOB会である桐花会の沿革を簡単にまとめておこう。  筑波大学の前身として東京高等師範学校、東京教育大学の歴史を踏んでいるのは周知であろうと思う。  東京教育大学空手部は昭和27年(1952年)に自発的な学生の活動により創設された。  創設者は当時農学部の学生であった長迫友之氏。発足当時は指導者や組織がしっかりと固まっておらず、  部活動として先輩格であった東京大学空手部と合同合宿を行うなどして、技術指導を仰いだと記録にある。  発足初期から流派は東大と同じ和道流で、  その後、初代宗家の大塚博紀師範が合宿や昇級審査などで直接指導に見えられるようになっていった。

 東京教育大学時代にははっきりとした体育会組織というものはなく、渋谷区幡ヶ谷にあった体育学部を中心とした部活動と、  文京区大塚にあった文学部、教育学部、理学部等の学部を中心とした部活動に二分されていた。  空手部は後者であり、様々な専門を持った学生が所属するのは当時からの経緯をふまえている。  東大との合同練習で始まった合宿等の活動が単独の構内合宿となり、  遠征合宿等も制度化していったのは発足後6〜7年後の昭和34年(1959年)頃からである。  長迫氏の1年後輩として入学した金井秀一氏の多大なる功績による。金井氏は卒業後群馬県の教員として12年にわたり校長を務め、  また全国高体連空手道部長の重職を兼任された。

 初代監督は金井氏の2年後輩にあたる岩山宏氏である。当時の試合制度変革の要請を受け学生監督という立場となり、  卒業後も含め6年間対外試合を統括された。その後2代目又井健氏、3代目北原文雄氏、4代目井原征治氏、  5代目松永江哉氏をへて6代目の私にバトンタッチされ筑波大学への移行となった。現在監督の藤田幸雄氏は7代目である。

 OB会組織は創設者長迫氏の卒業後に後輩学生の要請を受けて結成され、氏によって「桐花会」と命名された。  組織として確固たる発展を遂げたのは3代目事務局長の松永江哉氏の多大なる功績による。  以後4代目久保隆夫氏を経て現在の吉田茂氏に至っている。吉田氏はまた筑波大学教授にして6代目の部長も兼任しており、  空手部卒業生が部長職に就任するのは初めてのことであった。桐花会は平成17年に50周年を迎え、  記念総会を現役学生全員を交えて千葉県において挙行したのは記憶に新しいかと思う。

 空手部はやがて東京教育大学廃校、筑波大学新設の大きな波に見舞われることとなる。  当時監督を務めていた私にとって、教育大の歴史と技術をいかに筑波に引き継ぐかが最大の懸案事項であった。  昭和48年(1973年10月)開学で翌年度から新入生が入学した筑波大学における空手道部の創設は、  当時入学したばかりだった自然学類1期生の家村信弘氏らの手による。  氏の手記によれば素人ばかりの1年生5人で練習を始めたとあり、まさに歴史の継承は風前の灯火のようであったといえる。

 当初空手道部の指導に携わったのは、ちょうど当時の文部省職員であった教育大空手部OBの奥井保正氏であり、  氏が国立教育会館筑波分館に転勤したことに由来する。また東京都内から、  やはりOBの青柳薫氏が週末などに指導にあたるようになった。教育大最後の主将となった高橋正明氏の功績も多大であり、  この3氏らによって初期における命脈が保たれてきたのである。  昭和50年夏には記念すべき初の合同合宿が鹿児島県屋久島において行われる運びとなった。

 教育大最後となる翌年度の昭和51年(1976年)には、高校時代からの経験者であった藤田幸雄氏、伊藤恭滋氏、  芹澤雅之氏らが筑波大学の3期生として入学し、またその翌年度には体育センターに教育大OB松下雅雄氏が教員職として  赴任したことにより、筑波における新たな歴史が刻まれてゆく。昭和53年(1978年)竣工なった現在の武道体育館に空手道部が  優先的に使用できる1階道場が確保できたのは、開学直後から体育会登録を果たしていたこと、  そして松下雅雄氏の武道体育館設計段階における関与が大きい。その後空手道部は順調に成長し、  昭和63年藤田氏の大学院修了を契機に監督職を交代、それにともなって総監督も初代江川玟成氏から野口に引き継がれた。

 以上東京教育大学空手部、筑波大学空手道部の草創期を中心に記載したが、脈々と続く歴史は、  意気あふれる若人であったOB諸兄によって、それぞれの学年において地道に支えられてきたことを忘れてはなるまい。  部員諸君は諸先輩方の熱い思いを受け継ぎ、その末裔としての大きな誇りを持って日々の稽古に励んでほしい。