2025 年夏旅行記(群馬・横川)
旅人 AK47, 棒人間の人
はじめに
AK47
大学生の特権で、未だ夏休み真っ只中の9月9日。私、AK47の許に、一通の依頼が届いた。夏旅行で共に幹事を務めた、棒人間の人さんからだった。曰く、「旅人キドリの雙峰祭号で、夏旅行の旅行記を執筆してほしい」とのことである。 別の文筆活動をしており多忙な中であったが、旅行記を書いた経験は希薄であり、良い経験になると考え、承諾した。かくして、私は締切前日の深夜、2 か月前の記憶を辿りながら、執筆に臨む運びとなったのであった。私の後に峠の湯篇を執筆される棒人間の人さん、すみませんでした。
棒人間の人
夏旅行は、たびてつの恒例行事であり、年5回行われる「公式旅行」の一つである。正式に決まっているわけではないが、7月の土日のいずれかに、関東近辺へ日帰り旅をするのが慣例だ。今年度の行き先は、部員による投票の結果、群馬県の横川・碓氷峠周辺に決まった。関東とはいえ、鉄道でつくばから行くには時間がかかる場所である。タイトな日程となったものの、提案者であるAK47さんが考えてくれた旅程のもと、私たちは群馬へ出発した。
大学生の特権で、未だ夏休み真っ只中の9月9日。私、AK47の許に、一通の依頼が届いた。夏旅行で共に幹事を務めた、棒人間の人さんからだった。曰く、「旅人キドリの雙峰祭号で、夏旅行の旅行記を執筆してほしい」とのことである。 別の文筆活動をしており多忙な中であったが、旅行記を書いた経験は希薄であり、良い経験になると考え、承諾した。かくして、私は締切前日の深夜、2 か月前の記憶を辿りながら、執筆に臨む運びとなったのであった。私の後に峠の湯篇を執筆される棒人間の人さん、すみませんでした。
棒人間の人
夏旅行は、たびてつの恒例行事であり、年5回行われる「公式旅行」の一つである。正式に決まっているわけではないが、7月の土日のいずれかに、関東近辺へ日帰り旅をするのが慣例だ。今年度の行き先は、部員による投票の結果、群馬県の横川・碓氷峠周辺に決まった。関東とはいえ、鉄道でつくばから行くには時間がかかる場所である。タイトな日程となったものの、提案者であるAK47さんが考えてくれた旅程のもと、私たちは群馬へ出発した。
旅の経過
午前
7 月26日(土)、太陽が燃ゆる群馬の地へ、たびてつの部員11名で旅をした。 高崎線で神流川を渡り、群馬の玄関口たる高崎駅へ辿り着くと、主要幹線で姿を消しつつある 211 系が並び立つ光景を目にすることができた。信州色の帯をまとった 211 系の走る中央本線でも、来年を目処にE131系の導入が決定しており、置き換えの迫る最中、未だ国鉄戦士が現役で就労している高崎地区。延命工事も行われており、かつて東海道で海を見た211系は、もうしばらくの間、急峻な群馬の山中を走ることだろう。読者の皆様も、記録の為に群馬を探訪してみては如何だろうか。
7 月26日(土)、太陽が燃ゆる群馬の地へ、たびてつの部員11名で旅をした。 高崎線で神流川を渡り、群馬の玄関口たる高崎駅へ辿り着くと、主要幹線で姿を消しつつある 211 系が並び立つ光景を目にすることができた。信州色の帯をまとった 211 系の走る中央本線でも、来年を目処にE131系の導入が決定しており、置き換えの迫る最中、未だ国鉄戦士が現役で就労している高崎地区。延命工事も行われており、かつて東海道で海を見た211系は、もうしばらくの間、急峻な群馬の山中を走ることだろう。読者の皆様も、記録の為に群馬を探訪してみては如何だろうか。
10 時22分、高崎駅で信越本線の列車へ乗車し、それから30分もした10時57分、碓氷峠の東側の玄関口である――あるいは、であった―横川駅に到着した。駅を降り、横川機関区の土地を転用して建設された鉄道テーマパーク、「碓氷峠鉄道文化むら」へと入場する。エントランスに静態保存されている189系とEF63形が、歴史の探訪者を歓迎した。
碓氷峠鉄道文化むらは、1997年に廃止された旧信越本線を活用した「アプトの道」と呼ばれる散策路の起点でもある。ひとしきり碓氷峠に挑んだ記憶を味わった部員たちは、次の目的地へ赴く為、散策路を進んだ。この日の最高気温は36 度近い猛暑日だったので、部員たちは汗を拭ったり、日傘を差したりしていた。 なお余談として、筆者は別の所用で9月にも群馬へ赴いたのだが、その時に至っては39度に迫る最高気温を記録していた。恐るべき群馬の日射しである。ちなみに、そこでお会いした群馬県民の方によれば、「群馬で35度と言えば、涼しく感じる程度」らしい。
さて、アプトの道を往くと、江戸時代に関八州の玄関口たるこの地を守っていた、碓氷関所跡が見えた。語り部の方から親切にも説明して頂き、鉄道開通前のこの地についての理解を深めた。
さて、アプトの道を往くと、江戸時代に関八州の玄関口たるこの地を守っていた、碓氷関所跡が見えた。語り部の方から親切にも説明して頂き、鉄道開通前のこの地についての理解を深めた。
ここでアプトの道を引き返して横川駅へと戻り、高崎市街の観光をする「高崎コース」と、このままアプトの道を歩いて「峠の湯」へと向かう「峠の湯コース」の二つに行程を分割した。AK47 は「高崎コース」の幹事を、棒人間の人さんは「峠の湯コース」の幹事をそれぞれ務めた為、ここからはそれぞれの筆者による旅行記をお送りする。
高崎コース
暑さがピークに達した14時ごろ、「高崎コース」の部員はアプトの道を引き返し、横川駅へと戻った。14時10分に発車した信越本線は、14時41分に高崎駅へと到着した。 そこから、2時間程度の自由行動が始まった。本来、横川の「関所食堂」で食べるはずだった昼食が、筆者の調査不足によって現地で発覚した店のキャパシティ不足というアクシデントを受け、横川の離脱を1時間早めて高崎で各自喫食という方針に変更となった。そのため、ハラヘリザウルスが繁殖していた。筆者は高崎駅構内の麺屋、「八起家」を利用した。他の部員は、峠の釜めしや駅ビルに入っている飲食店など、各々の好む食事を楽しんだようだった。 たぬきうどんを一服し、ハラヘリザウルスを絶滅させた後、筆者が高崎に来る度寄っている、中古グッズ店へ向かった。「高崎まで来て中古グッズ屋か」という声が、どこからか聞こえてくる。しかし 9 月の訪問では、ここで筆者がずっと探していたプラモデルを確保しており、旅先でのこうした施設の訪問も、また一興だろう。考えてみれば、世間にはハードオフの為に全国を巡る人間もいるのだから、何ら不思議なことではないのかもしれない。そういう人間に、私はなりたい。
暑さがピークに達した14時ごろ、「高崎コース」の部員はアプトの道を引き返し、横川駅へと戻った。14時10分に発車した信越本線は、14時41分に高崎駅へと到着した。 そこから、2時間程度の自由行動が始まった。本来、横川の「関所食堂」で食べるはずだった昼食が、筆者の調査不足によって現地で発覚した店のキャパシティ不足というアクシデントを受け、横川の離脱を1時間早めて高崎で各自喫食という方針に変更となった。そのため、ハラヘリザウルスが繁殖していた。筆者は高崎駅構内の麺屋、「八起家」を利用した。他の部員は、峠の釜めしや駅ビルに入っている飲食店など、各々の好む食事を楽しんだようだった。 たぬきうどんを一服し、ハラヘリザウルスを絶滅させた後、筆者が高崎に来る度寄っている、中古グッズ店へ向かった。「高崎まで来て中古グッズ屋か」という声が、どこからか聞こえてくる。しかし 9 月の訪問では、ここで筆者がずっと探していたプラモデルを確保しており、旅先でのこうした施設の訪問も、また一興だろう。考えてみれば、世間にはハードオフの為に全国を巡る人間もいるのだから、何ら不思議なことではないのかもしれない。そういう人間に、私はなりたい。
他の部員はと言うと、高崎市役所へ赴いた者もいたようである。地方の市役所の例に漏れず、井伊直政が築いた高崎城の跡地に建つこの施設には、地上90mの展望台が備わっている。その部員は、高所からの景色を楽しんだようだった――もっとも上記や下記の写真を見ればわかる通り、あいにくの悪天候で、あまりよく見えなかったそうであるが。
峠の湯コース
「峠の湯コース」は本来、先述したアプトの道を歩いて温浴施設峠の湯へ行ったのち、旧信越本線の線路を走るトロッコ列車「シェルパくん」で戻る予定だった。しかし行き帰りどちらも廃線跡だと代わり映えしないので、ルートを変更し、アプトの道ではなく旧中山道を経由することにした。 先述した関所食堂で昼食のラーメンをいただいたのち、10 分ほど旧中山道を歩くと坂本宿の町並みが見えてきた。坂本宿はその名の通り碓氷峠の麓に位置する宿場で、江戸時代は峠越えの拠点であったが、鉄道の開通で横川にその座を奪われ、歴史だけが豊かな小集落へと転落してしまった。しかし新幹線と高速道路が整備された今、その横川でさえ拠点の座を失い、鉄道と関所という歴史遺産で食いつなぐ町へとなったのだから、時の流れは早いものである。
「峠の湯コース」は本来、先述したアプトの道を歩いて温浴施設峠の湯へ行ったのち、旧信越本線の線路を走るトロッコ列車「シェルパくん」で戻る予定だった。しかし行き帰りどちらも廃線跡だと代わり映えしないので、ルートを変更し、アプトの道ではなく旧中山道を経由することにした。 先述した関所食堂で昼食のラーメンをいただいたのち、10 分ほど旧中山道を歩くと坂本宿の町並みが見えてきた。坂本宿はその名の通り碓氷峠の麓に位置する宿場で、江戸時代は峠越えの拠点であったが、鉄道の開通で横川にその座を奪われ、歴史だけが豊かな小集落へと転落してしまった。しかし新幹線と高速道路が整備された今、その横川でさえ拠点の座を失い、鉄道と関所という歴史遺産で食いつなぐ町へとなったのだから、時の流れは早いものである。
坂本宿の宿場町には古い建物が随所に残っており、往時の雰囲気を今に伝えている。江戸時代の宿場町こそ日本中にあれど、都市化から取り残され、数多くの古い建物が残った町はそう多くない。その意味で、坂本宿は興味深い街歩きを楽しめた場所だった。ただ一つ不満だったのは、道路に車が走っているせいで、古い建物を間近で見るには車道を何度も横断しなければならなかったことだ。車のおかげで長距離移動は便利になったが、近距離の散策は不便になったように思う。これも時代の流れだろうか。
関所から2kmほど歩いて峠の湯に到着。しかし滞在時間が 40 分しかないので、ここで入浴したのは4人中1人だけだった。入浴が済んだ後、私たちは隣接する「とうげのゆ駅」からトロッコ列車「シェルパくん」に乗車した。移動手段であるといえど、法律上は正式な鉄道ではなく碓氷峠鉄道文化むらの遊具という扱いなので、乗るには乗車券に加え、同施設の入場券が必要である。私たちは午前中に両方とも購入済みだったので、スムーズに乗車できた。トロッコ客車、通常の客車、ディーゼル機関車の3両からなる列車はゆっっっっくりと走行し、20分かけてぶんかむら駅に到着。その後は退園ゲートをくぐり、信越本線で高崎駅に戻った。
帰路
17 時05分、峠の湯コースの行程を終えた部員たちが合流し、乗り継ぎの28分の間で集合写真を撮影することになった。しかしながら、高崎駅は新幹線駅であり、駅構内の人の流れが激しかった。それゆえ、ダルマやぐんまちゃんのフォトスポットにおいては、大人数での写真撮影が能わなかった。よって、外観での写真撮影を敢行した。かくして、下記画像のような集合写真を撮影し、夏旅行の全行程は終了した。
帰路
17 時05分、峠の湯コースの行程を終えた部員たちが合流し、乗り継ぎの28分の間で集合写真を撮影することになった。しかしながら、高崎駅は新幹線駅であり、駅構内の人の流れが激しかった。それゆえ、ダルマやぐんまちゃんのフォトスポットにおいては、大人数での写真撮影が能わなかった。よって、外観での写真撮影を敢行した。かくして、下記画像のような集合写真を撮影し、夏旅行の全行程は終了した。
この後、部員の多くは17時33分の高崎線で大宮方面へ引き返し、そこから各々の自宅へと戻っていった。 江戸時代から現在に至るまで、横川や高崎の歴史に深く触れられた一日となった。 なお、筆者がこの一日で得た知見を歴史地理学の授業において期末レポートとして提出し、どういう訳かA+を貰ったのは、別の話である。
むすびに
AK47
かくして、旅と鉄道の会の2025年夏旅行は無事終了した。何度かアクシデントに見舞われはしたが、大きな問題なく終えられたのは、入学 3 か月の若輩を支えて頂いた棒人間の人さん、そして先輩方のおかげである。この場を借りて、謝辞を申し上げる。
棒人間の人
今回の夏旅行では行き先の提案から日程作成、当日の案内に至るまで、AK47さんに本当にお世話になった。まるで私が幹事だったのが噓だったくらいである。この場を借りて感謝を申し上げたい。
かくして、旅と鉄道の会の2025年夏旅行は無事終了した。何度かアクシデントに見舞われはしたが、大きな問題なく終えられたのは、入学 3 か月の若輩を支えて頂いた棒人間の人さん、そして先輩方のおかげである。この場を借りて、謝辞を申し上げる。
棒人間の人
今回の夏旅行では行き先の提案から日程作成、当日の案内に至るまで、AK47さんに本当にお世話になった。まるで私が幹事だったのが噓だったくらいである。この場を借りて感謝を申し上げたい。